@article{oai:otemae.repo.nii.ac.jp:00001081, author = {OZAKI, Koji and 尾崎, 耕司}, journal = {大手前大学論集, Otemae Journal}, month = {Mar}, note = {2100000227, 本稿は、一八七四年(明治七)制定の医制をとりあげ、その立案者や内容の特徴について検討するものである。従来、医制については、戦後の一九五〇年代から一九七〇年代にかけて分厚い研究史が蓄積されたものの、それ以降はあまり活発な論議はなされず、そのために七〇年代までの史科的に制約をうけた中で発表された見解が、いまだに通用してしまっている。本稿は、近年公開されるようになった相良家資料などを利用し、医制の立案者やその内容的特徴について極力事実関係を明らかにすることに精力を注いでいる。分析の結果本稿では、医制が、従来言われてきたような相良知安が原案を作成し長与専斎がこれを引き継いで制定されたようなものではなく、①相良知安とその麾下の第一大学区医学校のメンバーが原案から成案の作成に至るまで一貫してその立案を主導したこと、②その背景には、同医学校の専門学校化と上野山移転、および東京の司薬場を中心に売薬税導入を含めた薬剤師取締を実施する同校メンバーの意図が込められていたことが明らかになる。また、③そのような意図を込めて立案されたがゆえに、医制は、特に東京以外の地方では適応しづらいものとなっており、これに反発した田中不二麿や長与専斎が左院とともに相良らを文部省から排除し、七五年の医制改正に至ることも同時に解明される。}, pages = {15--53}, title = {明治「医制」再考}, volume = {16}, year = {2016}, yomi = {オザキ, コウジ} }